戦国時代の細川家について
「戦国時代」が現代人をこうも強く惹きつけるのには、「多くの人間ドラマ」や「わかりやすい実力主義」といった、我々にとっての「本質」がそこには隠されているからです。
例えば、豊臣秀吉にみる出自を問わない成功譚。また織田信長が数倍の勢力を誇った敵を破った「桶狭間の戦い」など、そこには数々の魅力的なストーリーが存在します。
当寺「能持院」は、この「戦国時代」をはじめ、中世から近世にかけて活躍した名門武家でもある「細川家」の菩提寺にもなっている寺院です。
今回、その細川家と戦国時代の兼ね合いについて見ていきたいと思います。
戦国時代における細川家の立ち位置
一般的に戦国時代とは「1467年の応仁の乱」から始まり、「1615年の大坂の陣で豊臣氏が滅亡するまで」の約150年間を指すと言われております。
この時代において細川家は、室町幕府の政治を支えた名門武家から、戦国乱世を生き抜いた大名家へと姿を変えました。
そもそも細川氏は足利将軍家を補佐する三管領家の一つとして、代々管領職を務め、室町幕府の政治・軍事の中枢を担っていた家系です。特に細川政元の時代には、将軍を凌ぐほどの権勢を誇り、幕府の実権を掌握していたとも言われております。
しかし「応仁の乱」後の混乱や、家督争い、戦国大名同士の抗争によって次第にその勢力は衰え、かつての「幕府の名門」としての立場を維持することが難しくなりつつありました。
こうした中、家名の再興を果たしたのが細川藤孝(幽斎)とその子・忠興(三斎)です。
藤孝は優れた政治判断と外交手腕を発揮し、織田信長に仕えた後、豊臣秀吉、さらに徳川家康へと時代の変化に対応しながら家督を存続させ、また忠興も武将として数々の戦いに参加する傍らで、統治者としても手腕を発揮し、関ヶ原の戦いの後には肥後熊本に五十四万石もの領地を与えられました。この二人を代表として、細川家は西国を代表する有力大名へと飛躍したのです。
また兄忠興の影に隠れがちですが、当寺を菩提寺としてもつ「細川興元」もまた、織田・豊臣・徳川の三代に仕え、一番槍の武功や大坂の陣での大活躍など、戦国武将として名を馳せた人物です。
他方、細川家はそうした武力だけで繁栄してきたわけではありません。藤孝は古典文学や和歌に精通した文化人としても高く評価され、忠興は千利休に就いて茶道を学び、利休の高弟である「利休七哲」の一人として、武家文化の発展にも大きく貢献しました。
こうした総合的な力を兼ね備えたことも、細川家が乱世を生き抜き、江戸時代を通じて名門大名家として存続できた大きな理由の一つです。
そんな細川家にとっての「戦国時代」は、細川家の歴史上、最も重要な転換期であり、家名の存続と発展を決定づけた時代として位置付けられています。
戦国時代、細川家の人たちは
ここでは今の話にも登場した細川家の重鎮たちに、「細川ガラシャ」の存在を加え、当時の時代背景と照らし合わせながら、彼らの動向について探っていきたいと思います。
細川藤孝(幽斎)
細川家の「父」とも言えるのが先ほどの細川藤孝(幽斎)です。彼の存在はやはり大きいものでした。
室町幕府13代将軍・足利義輝や、15代将軍・足利義昭に仕えて京都周辺で活動していた藤孝は、その後情勢を見極めて織田信長の家臣となり、明智光秀らとともに各地を転戦とします。
1582年の「本能寺の変」では、親交の深かった明智光秀からの加勢要請を断り、剃髪して「幽斎」と号し、一族滅亡の危機を乗り越えました。その後は豊臣秀吉に仕え軍功を挙げます。
そこでは文化人として「千利休」や「木食応其」らとともに秀吉の側近を務める傍ら、武将としても、紀州征伐、九州平定、小田原征伐、文禄の役(朝鮮出兵)すべてに従軍・参陣して後方支援や外交交渉に手腕を発揮。
細川家を揺るぎない立場へと押し上げ、戦国時代における幾つもの荒波から一家を守り抜いたのです。
細川忠興
その藤孝の嫡男であり長男の忠興(三斎)は15歳で初陣を飾り、当時から良縁だった織田信長に仕えて数々の合戦で武功を挙げます。
そこでは織田家をはじめ、豊臣・徳川の天下人たちから「前線で最も頼りになる牙」として激賞されるほどの大活躍を見せました。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでも徳川家康に味方し、自身は上杉景勝討伐に向かいましたが、その際大坂屋敷にいた妻の細川ガラシャは石田三成軍の人質にされてしまいます。
ガラシャは人質となることを拒み、結果的に亡くなってしまいますが、忠興はそのようなことがあっても、家康のもとで東軍の勝利に貢献。この戦功により小倉藩の藩主として迎入れられ、その地位を揺るがないものとしました。
本来なら妻ガラシャを処刑か離縁すべきだったところ、忠興は彼女を深く愛していたため、丹後の味土野(みどの)に隔離・幽閉しながら妻を守り続けました。忠興は愛に生きた武将であり続けたのです。
この忠興とガラシャの話は今でも多くの人から愛され、戦国時代の語り草として欠かせません。
父の細川幽斎と同様に教養も深く、千利休の高弟として文化人としても名を馳せた忠興。京都の高桐院など寺院の創建や、独自の茶器の考案など、日本の文化史に多大な足跡を残しています。
細川興元
その忠興の直弟にあたる興元は、1577年の「大和国片岡城攻め(松永久秀討伐)」にて、11歳(数え年12歳)で初陣を飾りました。
この戦いで兄の忠興とともに「一番槍」の武功を挙げ、織田信長から直筆の感状を与えられています。
その後明智光秀の配下として丹波・丹後平定戦に参戦し、細川家が丹後国に入国すると、実質的な家老職(玄蕃頭)として兄の忠興を支えました。
豊臣政権下では、越中富山攻めや小田原征伐、さらには文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の晋州城攻防戦など、数々の大戦に兄とともに従軍して武功を重ね、細川家の代表として貢献を重ね続けていきました。またこの時期にはキリスト教の洗礼も受けていたとも言われております。
しかし兄忠興の専制的な振る舞いに対する興元の反発、およびキリシタン信仰や周辺大名(黒田長政など)との関係性をめぐる確執などで、次第に不仲になり、ついに細川家を出奔してしまいます。一時は京都で父の幽斎のもとに身を寄せ、隠棲生活を送っていた時期もありました。
それでも興元の関ヶ原での勇猛さを覚えていた2代将軍・徳川秀忠により、1610年に下野国(栃木県)茂木に1万石を与えられ、以降は兄から独立し、独立大名(茂木藩主)となりました。
栃木県茂木町にある当寺「能持院」は、その茂木藩主でもある興元を初代として、以降細川家の菩提寺になっております。
細川ガラシャ
戦国時代の「細川家」にあっては、細川ガラシャの存在も含めないわけにはいきません。
先ほどもありましたが、このガラシャと夫忠興とのエピソードは、戦国時代を代表とする語り草の1つです。そこには今でも沢山の支持者がおり、この二人の話は放映化したり書籍化されるなど、今もなお多くの人に親しまれ続けております。
忠興の妻として、またキリスト教の敬虔なる信者でもあった細川ガラシャ(本名は玉)。明智光秀の三女として生まれ、当時、織田信長の仲介で細川忠興に嫁ぎました。
しかし父・光秀が信長を討ちとったため、以降は「逆心の女」として京都の山奥(味土野)に数年間幽閉されることとなります。
そこで心の平安を求めてキリスト教に帰依し、「ガラシャ(神の恩恵)」という意味の洗礼名を授かります。
1600年の関ヶ原の戦いの際、石田三成が大坂にいた諸大名の妻子を人質に取ろうとしましたが、ガラシャはこれに従わず、またキリスト教の教えに背く「自害」を避けるため、家臣に胸を突かせる形で命を落としました。
これにより三成は人質作戦を断念せざるを得なくなり、退陣を余儀なくされました。結果としてガラシャのその行いが多くの人を救ったのです。
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