
細川家の墓所に関して
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細川家に関して
細川家は、足利氏の支族で、鎌倉時代に起源を持ち、江戸時代には肥後熊本藩主として栄えた名家です。近世の大名直系の子孫で、現代において首相を唯一輩出した家系でもあります。
日本の歴史の中で常に政権中枢に関わってきた一族でもあり、さらに細川藤孝に関しては文化にも精通した人物とされ、かの千利休の弟子の一人にも数えられたほどの人物です。
政治を通して時代を牽引してきただけでなく、和歌、茶道といった日本の伝統芸能にも関わりを持ち、「文武両道」の家風を一貫して持ち続けてきました。
細川家の墓所について
そんな細川家の墓所についてですが、実は当寺「能持院」の他にも全国に点在しております。
能持院(栃木県茂木市)
まず当寺においては、初代将軍興元から九代目の興貫までの墓所がございます。またそれぞれの墓所には墓標として杉が植えられており、石燈籠には没年月日が陰刻されています。
これは栃木県の指定文化財(史跡)にも指定されているものです。



泰勝寺跡(熊本県熊本市)
ところ変わって、熊本市黒髪の立田自然公園内にある泰勝寺跡は、熊本藩主細川家の墓所です。元々細川家というのはこの熊本で栄えた一族です。初代藩主・幽斎とその夫人、二代目藩主・忠興とガラシャ夫人の墓「四つ御廟」がここにあります。
妙解寺跡(熊本県熊本市)
こちらも同じく熊本市横手の北岡自然公園内にある妙解寺跡に、初代藩主細川忠利とその妻、また二代藩主・光尚の墓があります。
泰雲寺跡 (熊本県宇土市)
またこちらも同じく熊本県宇土市にある泰雲寺跡に、この宇土藩歴代藩主の墓があります。元々は宇土藩初代藩主細川行孝の父である細川立孝の供養のために建てられたものですが、明治3年(1870)8月に廃寺となり、この泰雲寺跡には新たに神道の原泉社が建てられ、そこで細川氏歴代の霊を祀っています。
細川玉子(ガラシャ)の墓所に関する謎
細川家の名を全国に知らしめ、また今もこうして語り草とさせた要因として「細川玉子(ガラシャ)」の存在があります。
その玉子の辞世の句として、「散りぬべき時 知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」がありますが、当時、家臣らは玉子が亡くなった後、玉子の遺骸が残らぬように絹衣で覆い、細川家屋敷には火薬をまいて焼き払い、その後は全員が自害したと言われております。
その時点でもしかしたら玉子の遺骨は跡形もなく無くなってしまったのではないか、という考察がなされております。
史実上では神父が細川屋敷の焼け跡から玉子(ガラシャ)の骨を拾い、堺にあるキリシタン墓地に安置したと言われており、またその後は大坂の崇禅寺へ改葬されたとも言われておりますが、この墓地も、まもなく徳川家に破壊されることとなります。
そのようなこともあり、一部の話では京都の高桐院こそがガラシャの正式な墓所であり、そこで細川忠興と共に眠っているという話もあります。
今は正式には泰勝寺跡がこの細川ガラシャの墓所とされておりますが、実際にはそこに玉子(ガラシャ)のお骨があるかどうかというのは定かではないというのが正直な見解のようです。
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