細川家の「現在」について
当寺「能持院」は栃木県茂木町にある曹洞宗寺院です。細川忠興の弟である細川興元を初代とし、それ以降の茂木藩主細川家の菩提寺にもなっております。
細川興元は朝鮮侵攻の時には兄、忠興とともに参加し、続いて関ヶ原の戦いの時にも徳川方につき出陣しました。
その際の活躍が認められ慶長十五年(1610)に、この下野茂木の地で一万石を与えられたと言われております。
忠興や興元をはじめ、優れた武人、また当代一の「文人」としても名を馳せた細川家。
本記事ではそんな細川家の「現在」の活動について見ていきたいと思います。
細川家の現在
細川家は元々は足利氏の支族で、鎌倉時代に起源を持ち、江戸時代には肥後熊本藩主として栄えた名家です。
大名直系の子孫で、現代において首相を唯一輩出した家系でもあります。
日本の歴史の中で常に政権中枢に関わってきた一族ですが、和歌、茶道といった日本の伝統芸能にも関わりを持ち、「文武両道」の家風を大切にした家系です。
2代当主である「忠興」は、武将としての武功のみならず、かの「千利休」の高弟としても歴史に名を刻みました。
その類まれなる才能で世に認められてきた稀代の家系は、今は第79代内閣総理大臣を務めた「細川護煕」氏が当主を担っております。
現在細川家では8点の国宝、33点の重要文化財を含む、美術品や歴史資料を多数保存しておりますが、中には織田信長・豊臣秀吉との実際のやりとりにおける古文書群なども見つかっており、歴史的文献の宝庫だと言えます。
それらは公益財団法人【永青文庫】として一般公開されており、我々もその貴重な価値に触れることができます。
当主である「細川護煕」氏は1998年、60歳という年齢で政界を退いてからは文芸に深く関わる仕事をしており、その【永青文庫】の理事長を務めるかたわら、絵画や書、水墨画などの実際の美術活動も熱心に手掛けております。その才が認められ、近年は重要寺院において「襖絵」の作画にも携わっているとのことです。
まさに細川家家訓の「文武両道」を、当主自ら貫いているというわけです。
またその護煕氏をはじめ、「細川護光」氏は陶芸家として知られており、現在は同じく【永青文庫】の理事をお務めになられております。
このように今もなお、細川家代々の「文武両道の家風」は子孫たちによって受け継がれているのです。
細川家の家系図
以下は簡単な細川家の系図です。
源義家-義国-足利義康-義清-義実-細川義季-俊氏-公頼-頼春-頼有-頼長-持有-教春……元有-晴員-藤孝(幽斎)-忠興
細川家の分家(傍流)
細川家には「嫡流」と、「分家(傍流)」とがあります。
そもそも「嫡流」とは氏族の正統な本家を指し、嫡系や本家とも呼ばれます。一方の「分家(傍流)」は本家から分かれた家筋や血統を意味します。
細川家はもともと「細川義季」を初祖とし、室町時代に畿内・四国を中心に活躍した一門で8か国の守護職を占める有力大名です。
その細川義季を初め、細川京兆家(ほそかわけいちょうけ)が嫡流であり、義季から、満元-持之-勝元-政元に至っては、代々幕府管領役として幕政の中枢として活躍しました。
しかし嫡流はその後戦国時代の内紛により、流れが途絶えてしまいます。
一方、佐々木源氏をルーツに持つ細川藤孝(幽斎)を祖とする傍流が、織田氏・豊臣氏・徳川氏に仕えて次々に出世し、江戸時代には肥後熊本藩54万石の藩主家となり、明治維新後には華族の侯爵家に列しました。
こちらの「分家」、いわゆる傍流としての流れが、群雄割拠な戦国時代から始まり、現代に至るまでの細川家の華麗なる歴史を築いていったのです。
江戸時代における細川家
細川家が頭角を表したのは室町時代です。
南北朝時代に足利尊氏のもとで勢力を伸ばし、室町幕府において政権中枢の管領家・有力守護大名となりました。
その後は華やかな地位を築いていきます。
足利義昭、織田、豊臣、徳川と将軍の近臣として、かの戦国時代の当主たちとその命運を共にしました。
細川家としてはやはり幽斎が有名ですが、江戸時代における「細川忠興」の活躍は凄まじく、その活躍によって関ヶ原の戦いの後、豊前小倉藩主を経て肥後熊本に移封され、江戸時代を通じて54万石の大藩として栄えました。
細川家は「一家」としてもやはり実力が隠されていたのです。
特に江戸時代の徳川家康には重用され、その影響もあり、当代きっての一族となりました。
明治維新後もその名は「華族」として受け継がれ、現代にも続く「名門一家」として世に認められております。
特に「江戸時代」においてその地位は確立されたと言えるでしょう。
細川家の領地
細川家は元々、室町時代には摂津国(現大阪府北中部、兵庫県南東部)などを領地としておりました。
その後、畿内・四国を中心に一門で8か国の守護職を占める有力大名となります。
忠興の時代には、「小倉城」(現福岡県)や「中津城」(現大分県)、「熊本城」(現熊本県)などの九州地方にも領地を伸ばし、また忠興の弟である、興元に至っては下野国茂木藩主(現栃木県)、常陸国谷田部藩初代藩主(現茨城県)となったことから、その名は全国に広まっていきました。
当寺「能持院」は、そんな細川興元をはじめとする、茂木藩主細川家の菩提寺となっております。
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細川家の呪い
細川家の歴史の中で、また特に戦国時代から江戸時代にかけて、当主やその周辺で不幸な出来事が相次いだことから、このような説がまことしやかに囁かれております。
例えば、細川忠興の妻で、キリスト教徒でもあったガラシャ。関ヶ原の戦いの際には、石田三成に人質に取られることを拒否し、自害しました。
その壮絶さは今も語り継がれるところです。この部分が人々にセンセーショナルな印象を与えており、それがこのような通説を生んでいるのかもしれません。

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